残響
わたくしへの配慮を!
まあ黒木ルートと同じですね。DQN、ヤンキーの臭いがどうしたって鼻についてしまう、ってやつ。うわ、全然同じこと言ってる、呆れるくらい

こーしんりょー

黒木ルートで別段ママンが関係なかったということは全開の対談である程度納得できました。で、明日原ルートでも同様にヤンキーが関係ないというのも分からなくはない。そうだとしても、

「関係ない」と言い切るにはママンもヤンキーもノイズ的にうるさすぎる。

そういう意味で、やはり僕もこの点は鼻につきましたね。




nisetono
じゃあ、そのヤンキー性というのは、いったい「誰」のことを示しているんでしょうか?


残響
……OK、わかりました。ネ!コ!のようにおなかを出して言いましょう。返ってくる反撃の威力をわかったうえで……
ーーー「あいつら」に決まってるでしょうがっ!!
(ここまで自暴自棄なコメントを出したの初めてかもしんない


nisetono

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まぁ残響さんがメタファーメタファー言いたがるのは、単に直接的にその対象に触れるのが怖いからってだけなんじゃね?疑惑がより一層増してきたわけですが。
それはそれでメタファーの重要な機能であるのは疑いないとしても。
ここは物事をハッキリさせましょうか。この作品で、少なくとも「主人公に仇を為すヤンキーたち」っていうのは、僕の読みではそんなに多くないですよ。


(1)最初に明日原に絡んだプロ野球を目指しているんだっけ?な何とか君。コイツを主人公がボコって一時撃退。
(2)その主人公をボコる為に、その何とか君達が仕組んだんだっけ?なハーニトラップ作戦
(3)で、最後はその何とか君が、腹いせに明日原のペットショップを襲撃


ってくらいですよね。他にも、明日原の髪の毛をライターで燃やしたり、みたいなミニイベントはあったと思いますが、まぁそれくらいでしょう。
それに、こうしたイベントにおいては、別に残響さんが、配慮しているのか、何かから逃げているのかは僕は良く知りませんけど、こうした「主人公たちに仇なすヤンキーたち」の存在は、ある意味で「黒木ママ」と同じように「コミュ不可能な他者というかモンスター」として、まぁテンプレ的に書かれていると言って良い。

作者は別に「彼ら自体」をそこまで問題視していないし、強く描写しているわけでも無い。

残響
わりとびっくりしてます。

「明日原の髪の毛をライターで焼いた奴」も一人、と勘定してましたし、明日原が「喜んだらいじめる」ってひとくくりにされた奴らも、複数の顔が見受けられたので、それも一人一人、と勘定していました。

ようは明日原の人生においてろくでもないことをしやがったやつら、記憶の中に残ってる奴ら、を全員勘定してたのがぼくの読みでした。さらに言えば明日原の親だってワーストではないけれどもなんかこう、っていうのもありましたし。まあこっちはコミュ不可能な他者、ではありませんが。

「彼ら自体をそこまで問題視してはいない」。うん、それは納得できます。

でもまあ、奴らはぼくから見たらゴミというか敵というか……さっさとデリートしてしまいたい、というか。奴らに通り一遍の「価値」をまるで見出していない、ちう意味では、問題視していない、ということも、まあ言えますが。
観測野郎のくせして、明日原に感情移入してるか? 憑依してるか? 

いや……ちょっとべつで、やっぱこれはトラウマ刺激なんかなぁ。
こんな奴ら、見たくない。その意味では、メタファーで逃げる、っていうのは、まさにその通りですよ。こいつらの「色」で自分の心と脳の色を汚されたくない。しかし塗りつぶされてしまった。なら、詩とメタファーの色で「新しい世界」でもいっかい塗るのも、やはりメタファーの意味のひとつ、ってのは偽トノさんも先ほど認めてらっしゃいましたね。
まとめきれていませんが、まあこんな感じです.。(あ、これ、主観と客観が区分されてない(今気づいた


こーしんりょー
いやいやいや、この対談の読者のうち、いくらかは僕と同じ思いだと思うんだけど、その(1)~(3)でもう「多くない」ってことはないよ! 

確かに、彼らは物語上要請された「コミュ不可能な他者」としてテンプレ的に書かれている。

そこで、僕が明日原ルートで鼻につくのは、そんな無味無臭の「嫌な感じ」のハリボテと主人公グループとを対峙させることで、主人公グループの結束を描写するってところなんですよ。これには強い欺瞞を感じました。


残響
さらに言えば「嫌な感じ」のハリボテは、ハリボテであるが故に無数に沸いてきますよ! 

同じハリボテ、テンプレであるんだから、いくらでも居る。それがテンプレ=類型、の意味でしょう。

一度、取り囲まれたらそういう感覚になる。疎外されたひとにとって、「あいつら」はハリボテの概念存在であると同時に群衆となる!(これはこーしんりょーさんの意見とはまた違った部分になってしまいます。失礼


nisetono
こーしんさんの話、(3)については多少の疑問(これは後でやります)を除いて、基本的には「主人公グループの結束」云々は正しいと思うんですが、(1)と(2)については、彼らテンプレヤンキー存在は「主人公結集」云々とはちょい違う機能性を持っているとは思いますけどね。
あ、さっきのヤンキーの名前はシオハラくんでしたw


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こーしんりょー
(1)と(2)は確かに自分でも論理が弱いかと思います。しかし、とにかく(3)がでかい。でかすぎる。

てかこれは即逮捕レベルでしょ

なのにすぐ仇討ちという流れに持っていって、乱闘の果てに「仲間」を強調するという構図がかなり嫌ですね。


nisetono
うーん、それもちょい違うと思うんですがねえ。これも基本的には黒木ママルートと構造は似ていますね。

ドラマツルギー的には「敵の固定による仲魔の結束」を描いているようにみえるし、それは「ある程度はそう」ですけど、但しこの対決によって、意味論的には「主人公たちとヤンキー」が差異化されているわけではない。

むしろ、ある種の同質性を示唆していると思う。


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トラウマ云々っていう話で言うなら、これも僕には「もはや懐かしい」レベルにはなっていますけど、確か小学校高学年の頃、こういうことを行っていろいろと周りに迷惑をかけたことがありましたねぇ

まぁ僕の周りには、もともとこういう人間が多いので、結構「慣れている」というところはあるにしても。


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さて、こういう思考回路について、僕らは「ヤンキー的」と名付けることは出来るでしょうかね?

って言う話だと思うんですよね。ここらへんのは問題は。
それこそ、こーしんさん的に言えば「警察に行けば良いじゃ無い」と言えば済む話ではありますし、べつにそういう文脈で「このシナリオが良く理解出来ない」というのでしたら、それはそれで別に嫌味抜きで、かなりの正論だとは思うんですが

こーしんりょー
うーん、理解できてるかできてないのかはわからないけれど、とにかく私は「仇討ち」という展開が作品雰囲気に対して著しくバランスを欠いているとも思うんですよね。

そもそも仇討ちという行為そのものが、仇と同質化することとイコールだし、しかもその対立対象の仇がハリボテときているからこのシーンによって描こうとしているテーマもハリボテに見えてくる。
100歩譲って仇討ちを有りだとした場合、シオハラ側にも何らかの信念なりを持たせて共感はできずとも感情移入はできるようにするか、またはハリボテでないもっと強大な存在感を持たせない限り

僕にはこのシーンそのものがハリボテにしか見えなくて、結局は「なんでこんなシーン入れたの?」となる。


nisetono
うーん、仇討ちが仇と同質化することイコールというのはその通りで、実際このシナリオはそういう事を書いていると思いますよ。さっきも行ったけど、別に「主人公とヤンキー達を差異化しよう」っていうのがこのシナリオの目的では無く。
主人公たちにも「ヤンキー」的なところがある、っていうのを示唆するのがこのシナリオの目的だと思っていて。

nisetono
こーしんさんが言うような「シオハラさん達にも信念があるから、それをハリボテ的に書くのは欺瞞」というのは、これは前段はその通りですが、後段はテンプレヒューマニズム文学論で、僕は却下したいですね。
そりゃまぁいろんな人が色んな信念があるのは事実ですけど、それと同時に全ての人がその全ての人の信念を理解出来るわけが無いのも自明であり、さらにはそのひとつの信念を持つと言うことは、その信念の内容次第ではありますが、他の信念に対して批判的になり「ハリボテとして見る」ということでもあるので。
さらにそれが「信念」だけだったら、クソロマン主義文学みたいに「全ての信念は同価値なんだー」とか言ってオナニーしとけば良いわけですが、それが現実の世界において「信念が実行に移された場合」には「自分の目から見て、他者がハリボテにみえる」ことなんてザラでしょう。

ここにはその代表例みたいな「残響さん」という人間もいるわけですし。
と、なると、別に「ノラトト=残響さん」というわけではありませんが、そういう残響さんめいた登場人物を描く場合においては、そりゃ「ヤンキー達」をハリボテとして「残響さんの側から見れば、彼らはこうみえる」というように書かざるを得ないでしょう。
まぁ、この作品の場合、別に「主人公たちの信念」を殊更正当化しようとして描いてるわけでは無い、というのがこのシナリオの「わかりづらさ」かと思いますけどね。続きはありますが、まずはここまで.


残響
「主人公の側にもヤンキー性はある」という点が、自分がノラととを手放しに誉められない理由です。

ぶっちゃけると。「世界観の中にヤンキー性を包括する」っていうので「配慮」した表現をいままでしてきましたが、簡単にいえばこうです。んで、明日原ルートのラスト、何かを思い出すなーと思ったら、高倉健の昭和残侠伝シリーズの様式美なんですね



nisetono
ついにゲロを吐いたかw


残響
ええと、これ町山智浩さんが簡潔に言い表してくれてるんですが、



ーーーでもこの60年代の高倉健さんの任侠映画っていうのはものすごくですね、美しいんですよ。様式美の世界で。しかもですね、礼儀正しいです。

(赤江珠緒)あ、そうですね。うん。そうなんですよ。

(町山智浩)高倉健さんの特徴っていうのは、まずいい男で、礼儀正しくて、無口で、いつも敬語。

(山里亮太)あ、たしかにそういうイメージがある。

(町山智浩)なんですよ。だから、その昭和残侠伝シリーズっていうのは昭和のはじめのころのやくざ者を高倉健さんが演じてて。

なんとかまじめに生きようとしてるんですね。背中に刺青入ってるんですけど。唐獅子牡丹の。ところが、

悪いヤクザによって周りの人たちも自分も散々いじめられて。耐えて、耐えて、耐えぬいて、最後に爆発して。まあ、ドスを持って切り込みにいくっていう話なんですが。毎回同じなんですが(笑)。

(山里亮太)お決まりのパターンがあって。

(町山智浩)そう。ただ特徴はね、ヤクザなのに言葉が丁寧なんです。高倉健さんは。

町山智浩が語る 絶対見てほしい高倉健映画11作品


まあ正直、こーしんりょーさんと少し意見相違(パラレル)になるのですが、「えーここで高倉健的復讐?」みたいには思うのですが、ぼくの場合「フィクションなんだからもっとやれ」っていう正直なこころがありますねw 

もうゲロりますわ。復讐ものはエンターテイメントの王道ですよ!(文学も美もメタファーもクソもねえ)
だからあの殴りこみラストでは、シャチの視点「言わんけど、もっとやってもいいのに」が自分の立場に一番近い。ただ、まあ、これ仰るように主人公視点だから言えるんであって、傍から見たらノラさんたちのって、スケール小さくした高倉健殴り込みではないか、っていう指摘は、ごく順当なものだと思います。


こーしんりょー
「もっとやれ」視点でいえば私も実際に攻略直後に次のようなツイートをしていましたw


nisetono

なんだか酷い展開になってますが(誰の所為だろう?)vostokさんはどう思いますか?


vostok/daktil
すいません。なかなか話に入っていけず。
僕はストーリー展開の自然さとかにはあまり目が行かないもので。展開そのものについては、例えば、『素晴らしき日々』のようなガチな迫力はあまりないので、トラウマ的な反応はありませんでした。
目がいくのはやはりあっすーの反応のほうであって、周りはそれほどでもない。
皆さんもご指摘しているように、明日原シナリオは黒木シナリオに似たところがある。

どちらも日常が足元から崩壊していくときの怖さがあるというか

黒木さんはノラの家に来るようになって、あっすーはノラを失いそうになるのだからベクトルが反対のところもありますが。
そういう何かを失って放り出されていくときの女の子を見ているのが好きかも

これは感情移入ということになるのかな。残響さんはレビューでノラのキャラ造詣を分析していて、主人公に感情移入しにくいと書いていますが、ヒロインに寄りそって読みやすかったかなと思います。
あっすーは余裕があるようにみえて、実際に生活能力も高いけど、かなり危うい生活をしていますよね。今までもドロップアウトしかけたりしてきわどい。そういう危うさをセリフの端々から感じられて、丁寧に描けているなと思いました。そういう意味でテンプレ展開的なことはあまり気にならなかった。


ノラトト対談-ノラと明日原と潮干狩りルート3「でもね、良いむっつり」